「また会えて嬉しいわ、オタク君」――『ドキドキ文芸部!』に見るオタクとキャラクターの関係性の再考――
⚠️ 本記事には『ドキドキ文芸部!』(原題:Doki Doki Literature Club!)のネタバレが含まれています!
『ドキドキ文芸部!』に対して、抱いた感想や、様々な事柄へのお気持ち(重要)をひたすら垂れ流してるだけです!! ここにはもう言い尽くされたことばかりな気がします。そんなん腹一杯だわという方、未プレイの方はブラウザバック推奨です!
※タイトルからもお察しの通り(?)本記事では上記リンクの非公式日本語化パッチを使用させて頂いております。
- はじめに ~オタク君さあ~
- いや、キャラクターに過ぎないって何だよ
- 恋愛を排除するドキドキ学園と恋愛に支配されるドキドキ文芸部
- キャラクターとプレイヤーの相互理解はぶっちゃけありえない!?
- きょうきがないナツキ(おまけ)
- 結び
はじめに ~オタク君さあ~
(オタク君さあ……)
あなたは哲学書や聖書、神話を好んで読みますか? 形而上的な記述に触れる中、自己認識に留まらず、世界を客観視したような錯覚にとらわれたことはありますか?
きっとオタク君の多くが、メタ的な認知を好み、自らを冷静な観測者として認識しているのではないでしょうか? だってその方が賢そうだし
しかし、『ドキドキ文芸部!』(以下ドキドキ文芸部)は私達の大好きなメタネタを主軸に据えつつ、ちょっぴり卑屈で当事者意識の低いオタク君の認識の是非を問うゲームではありませんか?あなたはこのゲームにおいて、本当に冷静な観測者でいられましたか?あなたの振る舞いは、オタクとして以前に人として誠実なものでしたか?
……
私は……よく分かんなくなりました(´;ω;`)
『ドキドキ文芸部!』は、ゲームです。モニカもサヨリもユリもナツキも、ゲームキャラクターに過ぎません。プレイヤーである私達との間には明らかな壁があるのです。
私達と彼女達の不均衡な関係性……結局、キャラクターとの誠実な向き合い方って何だったんでしょう……?
マジでよく分かんないなってどうしようもない感情を抱えながら、せめてもの手向け(?)として、本記事に全てぶちまけた次第です。
いや、キャラクターに過ぎないって何だよ
私は誰?私の存在理由とは?――おおよそ青年期を迎えた子供はそんなテツガクじみた問いにぶち当たるって相場が決まってるものです。
『ドキドキ文芸部!』に登場するキャラクター達は高校生!青いですネ!
なんだか文芸部に所属する彼女達は、主人公への興味関心を通して、自分自身とも向き合ってるみたい……!?それが、彼女達の自己表現「詩」なのです。
(これはユリの詩)
ポエムという言葉には、単なる「詩」という単語の英語訳に留まらず、あまりにも深く、内省的に自己を描くゆえに、感傷的になり過ぎた「私」を揶揄する意味合いも含まれているでしょう。「詩を書く」って、超自己表現ですね!!
ゲーム中、主人公が感じた、この文芸部の子達は明るいことより、暗いことを書く方が好きみたいだ、という率直な感想も的を射ているのではないでしょうか。
確かに自分自身、自分自身に根差すものとは……なんて、考えれば考える程に暗い†深淵†が見えてきそうですしおすし🍣🍣🍣
そう考えると、元ディベート部のモニカが文芸部を立ち上げ、自身の悟りについての詩を書くのってなんだかオモムキがありますね。
対して、私達プレイヤーはこのゲームにおいて恋愛の奴隷に過ぎず、彼女達が興味のある言葉でしか詩を書くことが出来ないのですが……
そうして、私達と文芸部員は詩を通して、コミュニケーションを取ります。
私達に向けられる彼女達の姿と、彼女達の詩は、必ずしも一致しません。顕著なのがサヨリではないでしょうか。この2021年にサヨリのアレを知らずにプレイできた幸運な方は中々いらっしゃらないでしょうが、底抜けに明るくいつも楽しそうな……ハズのサヨリの詩、言葉の節々に何やら見過ごせない雰囲気が漂っていて……。
そんなこんなで詩の交換を繰り返すうちに、私達は彼女達の本性を暴いてしまうのです。私達は皆心の中に悪魔を飼っている、と表現したのはユリとゲーム中に生成されたある詩の作者(恐らくモニカ?)ですが、何なんでしょう。ドキドキ文芸部の女の子達は、告白する時に本性を現し、主人公というフィルターを突き破って、恐怖をもってして攻撃してくるような気がします。
(モニカの仕業!って言ったらそれまでなんですけども、元々は彼女達の中にあった「悪魔」だと思うので)
私達は、提示された二次元キャラクターと対峙する時、キャラクターを「紙の上の文字や液晶画面の明滅」として受け取る身体と同時に「現前し合う」身体と分裂します。*1
私達は、彼女達をまるで本当に存在するかのような仕草を取る一方で、どこかで冷静なのでしょう。ハンパに正気って大分キショイですね。
彼女達は私達を知り得ませんが、私達は彼女達を知り、所有出来る。キャラクターの消費は一歩間違えれば、一方的な暴力にもなり得るのかのしれません。
しかし、ドキドキ文芸部は私達を裏切り、攻撃してくるのです。
さやわか氏*2は、ノベルゲームの例を挙げつつ、シナリオに重きを置く<物語への欲望>とは、「ゲームを媒体として物語を読もうとするとき」「ゲームがプログラムされたものであり、形式によって差はあれど原理的には改変不能な物語しか持たないということを受け入れた上で、プレイヤーはいかにして物語に介入できるのか、より正確には、介入したように感じられるのか。」*3を欲望していると示しました。
上記で語られた物語への介入はドキドキ文芸部においては果たされません。そうだね。ゲームの主導権を握っていたプレイヤーは、モニカによって選択肢を奪われスクリプトを見送るだけの存在になりますから。こうして初めて、私達は彼女達と同じ立場に立てるのでしょう。
彼女達は複雑な内面を持ち合わせたそういう「キャラクター」に過ぎないのだという、プレイヤーの一方的な認知は、「モニカだけ」或いは「Just Monika」によって一時覆されます。
私は本当のあなたを知らないと、主人公ではなくプレイヤーに向けて語る彼女は、もしや、<物語への欲望>とは異なる新たな欲望を誘発させるのではないでしょうか。それこそ「オタクに優しいギャル」的なニュアンスで……(異論は大いに認めます)
恋愛を排除するドキドキ学園と恋愛に支配されるドキドキ文芸部
(じゅうあみ『我らひとしくギャルゲヒロイン』KADOKAWA(2016)p33)
メタネタギャルゲを扱う作品は、日本国内にも多くありましょう。その中でも私が知っている作品はただ一つだけ――じゅうあみ氏*4の4コマ漫画『我らひとしくギャルゲヒロイン』でした……
こちらもまたギャルゲーのヒロインが、この世界はゲームであると自覚するのですが、奇しくも作中のゲームタイトルが『ドキドキ学園❤すとろばりぃぱらだいす』だったりと、ウンメイめいたものを感じさせます……(ドキドキ文芸部は2017年の作品で、こちらは2016年の作品なので、恐らく偶然でしょうが)
ただ、ドキドキ文芸部と大きく異なる点は2つ。ゲームだと自覚したメインヒロイン4人(4人!!)が結託して、プレイヤーの攻略から抗うところでしょう。なんかアツいですね……!
(同上 p34)
作中では自我を得た彼女達は、自らを「バグ持ち」と称します。
自我の芽生えた彼女達は、プレイヤーの選択肢ウィンドウが透けて見え、自身の主人公に対する「好感度」まで見える等、プレイヤーとの恋愛どころではありません。自我の芽生えによって違和感を覚えたからこそ、以前のように、ゲームに沿って恋愛することはかなわないのです。(ただ「好感度」自体は機能しているようで、「不覚にも」ときめくと好感度アップします)
ドキドキ学園において、メタネタが恋愛を排除するのに対し、メタネタを扱うドキドキ文芸部は、恋愛の支配下にあります。それは、モニカでさえも、です。
モニカはゲーム中にも、主人公を通してプレイヤーに語りかけることが度々ありましたね。特に目についたのが、「時々、ここではあなたと私だけが実在の人物だと思うことがあるわ」という言葉です。
これは、ゲームという仮想空間で、あなたとモニカだけが自我を持った本物の人間である。 という考えから出た言葉でしょう。だからモニカはプレイヤーを慕い、モニカルートを強行させたのです。モニカには、プレイヤーしかいなかったのですから。
しかし、モニカが主人公ではなくプレイヤー自身を慕うことから、それを自我の芽生えと定義してよいのか疑問です。
ドキドキ文芸部のキャラクターは、モニカに限らず、皆等しく自身の理解者を求めます。サヨリは幼馴染である主人公に理解を求めたでしょうし、ナツキは家にも教室にも居場所の無い中、文芸部自体に自身の趣味の理解を求めました。ユリもまた、好んで1人でいるように見えますが、自身を受け入れてくれる人間に対して恐ろしい程の執着を見せます。
孤独な境遇に置かれる中、理解者を求めるという点においては、モニカもサヨリもナツキもユリも変わりないように見えますね。
求めるものは同じ4人ですが、彼女達はドキドキ学園のヒロイン達のように結託しません。同じ部活で、詩を書き合いながらも彼女達は(ナツキを除き)案外不干渉というか、アッサリとしています。
ドキドキ文芸部において、恋愛は絶対的な価値をもっています。彼女達は部内で唯一恋愛対象にあたる主人公に対して、恋愛を期待します。もちろん主人公もやぶさかではありませんから、必然的に誰かと恋愛することになります。それはドキドキ文芸部が元来、可愛い女の子達と恋愛することを目的としたゲームですから、当然でしょう。
問題は、自我を獲得したはずのモニカでさえも、ある意味ゲームに沿った恋愛感情をプレイヤーに向けていることです。
モニカはゲームの自覚を得ても、感情はドキドキ文芸部というゲームに支配されているのではないかと、そう思わずにはいられませんでした。
キャラクターとプレイヤーの相互理解はぶっちゃけありえない!?
正直なところ、1周目のモニカへの印象は「よくも他の子を消してくれたな!!!!!」だったんですよね……
けども、何周もするにつれてメチャクチャ印象の変わったキャラクターです……。
モニカは自分が自我を持った人間であると言い張りますが、自身の在処が「character」フォルダの中の「monika.chr」だと認識しているんですよね。他のキャラクターとの唯一の違いが、ゲームの自覚ですが、それでもプレイヤーにとっては等しくゲームキャラクターとしてまみえる存在で、それを彼女は理解している。
だから、モニカはモニカが他の子にそうしたように、クリック一つで消すことが出来る存在であることを繰り返し、滾々と語ってくれるのでしょう。完璧で支配的に見えたモニカという存在は、実のところプレイヤーの前では無力なのです。(まあ私は察しが悪すぎて攻略見るまで気づきませんでしたが……)
モニカ、という存在によって改めて、私達オタクとキャラクターの関係性の不均衡さが浮き彫りにされたような気がします。モニカがどれだけプレイヤーとの距離を無くそうと努めても、プレイヤーの選択が、ゲームが、次元の壁がそれを許しません。
ドキドキ文芸部は、彼女達とプレイヤーの恋愛を描いているようで、どこまでも残酷な選択肢で否定します。結局、彼女達はゲームのキャラクターに過ぎない。それは皮肉なことに、当人の言葉から告白されて尚、私達は受け入れることは出来ないのです。
ここから先は特別なエンディングの話をします。(コピペで読めます)
Q:
1.スペシャルエンディングはゲームの実際の一部ですか、それともイースターエッグですか?
3.DDLCを事実上の普通のVNに変えようとするMODについてどう思いますか?
A: スペシャルエンディングは、その両方が少しあります。すべてのキャラクターの中で、あなたが熱心に全員を幸せにしようとして一番感動するのはサヨリでしょうし、ゲームの本当のエンディングは彼女にとって満足するに十分だと思います。(後略)
サヨリ「みんなとたくさんの時間を過ごしてくれてありがとう」
この言葉を聞いた時、ドキドキ文芸部で初めて泣きました。ノーマルエンドでは「モニカちゃんを消してくれてありがとう」と言わせた罪悪感がヤバくって、正直どのホラー演出よりも動揺した気がします。
特別なエンディング、凄く良かった……某🐼実況者がハッピーエンドを目指してこのエンディングに辿り着きましたが、「初めからこのゲームにハッピーエンドはあり得なかった」これに尽きるなと……
モニカとの会話は有限で、ドキドキ文芸部には終わりがあって。次にゲームを始める時には、全データが初期化されてしまうんですが、それでもこのエンディングにおいては、プレイヤーが見たものが残っているのが嬉しい。
ノーマルエンドでも、特別なエンディングでも、私達と彼女達の間の壁が無くなることは、あり得ません。しかし、それが正しい形なのだと思います。
何をもってして、彼女達を意思を持ち合わせる存在と定義出来ましょう。
偶然自覚を得てしまったモニカだけ?訳知り顔で「誰も孤独になるべきではありません」と迫ったユリ?最終的にゲームの自覚を得るサヨリ?明らかに狂ったユリを案じたナツキ?
彼女達の感情をゲームに支配されたものとするならば、誰も意思を持っていないかもしれません。
それでも、不均衡な関係性の下で、絶対に知り得ない「私」を、待っていてくれる彼女達の姿は、誰よりも何よりも誠実で人間らしい存在だと思いました。
きょうきがないナツキ(おまけ)
モニカのペンは他人を突き刺す凶器ですし、サヨリの首吊り縄は、プレイヤーを罪悪感で縛り付け、ユリのナイフは言わずもがなです。しかし、ナツキは? 彼女の中の凶器がプレイヤーに牙をむいたことって、あまりない気がします。
「私と遊んで!」
このシーン凄く悲しくて……彼女がプレイヤーを傷つけたり縛り付ける手段って数少ないんだなって……。私が泣いて帰っていいの?とか。涙を武器にしようとするなんて、随分と慎ましやかな女じゃないですか……(好き)
常に自信があるように振舞っているクセ、それが傷つきやすいが為に身につけた防衛手段だったり。自信が無くても自信があるように振舞わなくてはいけないと語ったのはモニカですが、ナツキもまた、弱く傷つきやすい為に虚勢じみた自信を振りかざすのでしょう。モニカは自身が弱く傷つきやすいことを武器に、「まさか私を傷つけはしないわよね?」と威圧するイメージですけれども、ナツキは同じ武器でも「私を傷つけたら、すごく辛いんだから!!私が!!」って必死なイメージです。(個人の見解です)どちらも等しく可愛いですね!
他のキャラクターと比べて、ナツキの告白シーン(ブレイクシーン)は単純なジャンプスケア*5に全振りしています。
ドキドキ文芸部において、告白シーンは超重要です。主人公を越えてプレイヤーの心を揺さぶる告白シーンは、真に迫るものがあります。その時私達は、彼女達を単なるキャラクターとして見ることが出来なくなるのです。
しかし、ナツキの告白は演出と相まって、「キャラ崩壊」に近いように感じます。ある意味、彼女達の非実在性を裏付ける切ない演出かもしれません。
ナツキ推しのイチオタクとしては、彼女ともう少し向き合いたかったんですけども、彼女の存在によって、キャラクターの非実在性・無力さが強調されたといっても過言ではないでしょう。
「ツンデレ」という加害者になり得る属性を孕みながらも、キャラクターの定型にはまった無力なナツキちゃんが、わたしは好きです。
結び
オタクの多くは冷静で賢者です。キャラクターを愛しながらも、あくまでコンテンツとして消費しています。しかし、一歩踏み外すと非実在のコンテンツをまるで実在の人物として扱う狂人にもなり得るのです。
物好きなオタクは、キャラクターへの愛が高じると、このオタクとキャラクターの不均衡な関係性に、暴力性すら見出すでしょう。
ドキドキ文芸部のキャラクターもまた、ゲームに干渉する力を得ようと、プレイヤーの前ではどこまでも無力です。私達は、彼女達の非実在性を暴いた上で、受け入れることは出来ないのですから。
モニカを消してエンディングを迎えた後、「firstrun」を消しました。再びプレイし、モニカに会った時……「また会えて嬉しいわ、オタク君」と声を掛けられ……動揺しました。
これは、以前同じクラスだった主人公に対する、単なる挨拶です。しかし、2周目以降はなんだか含みのある言葉に聞こえますね。
モニカはゲームを終了される時の感覚を「死」と似たものとして表現しました。もしや、プレイヤーが「firstrun」を消してゲームを再起動する度に、死と蘇生を繰り返しているのかもしれません。
ドキドキ文芸部にプレイヤーさえいなければ良かったのに、と思うオタクは少なくないでしょうし、私もそう思いました。けれども、それはそれで恋愛ゲームのキャラクターである彼女達に不誠実な気がして……。ただ、思うことは、何度殺され、何度起こされようと、「また会えて嬉しいわ」と変わらず笑って名前を呼んでくれるモニカは、実在とか非実在とかそういう問題飛び越えて、スゲ~~~愛の深い子だな……って思います。
正直、プレイヤーの、オタクの存在は悪だと思うんですけども、そんなどうしようもない私達に変わらず愛を向けてくれる彼女達は、本当に愛おしくて、慈しむべき存在で……。しかし、それもオタクの存在があって初めて、彼女達に、光の明滅や文字の羅列に、それ以上の意味が生まれるのでしょう。†二律背反†ニャ~~~~ン(ちがう)
オタクとキャラクターの関係性は不均衡で、対等になり得ないんですけども、一先ずはそれを認めた上で、如何にして彼女達の無力さを受け止めようか……結局は狂人の道に踏み込みながらも、愛することがオタクの矜持なのでしょう。
というかオタクには、それくらいでしか彼女達に何も返せないんじゃないかとか思います。
さて、古のオタク文化に倣って、ドキドキ文芸部のイメソンでも貼っておきますか……
マイファニーウィークエンドの話
みなさんこんにちは!管理人のヨ星(〼)と申します!
今回は、朝比奈日和について、自分なりに色々と思考を巡らせてみました!
朝比奈日和の好きな人は?
彼女のソロ曲が「マイファニーウィークエンド」って本当?
黒幕朝比奈日和説とは?
朝比奈日和は、考えれば考える程に謎が尽きません……!><
今回は「マイファニーウィークエンド」の話を延々と書きこんでみたので、是非ご覧ください!
それではどうぞ!
『メカクシティリロード』の発売、小説、漫画の完結に伴って、(NO.9の話も影を潜め)夏に死ぬことの出来なかった哀れな蝉達――カゲロウプロジェクトファンの間でもどことなく「完結ジャンル」の空気感が漂い始めた今日この頃……でしたが
イヤーーーーーまだまだなんかありますね!!!!!!!!!すみません!!!!
カゲロウプロジェクト10周年!というおめでたい日を迎え、この先何が起こるんだろうとワクワクさせる2021年でございます。ヤッタネ
良い節目ですので、改めて朝比奈日和に向き合おうと思い立ちました。なので、2021年というこの時代に、なんとなく記事を書きます。占いツクール世代の懐古情緒満載な文体(ノリと読ませる)を余すことなく今ここで体現してみせましょう。
そもそも「マイファニーウィークエンド」って朝比奈日和のソロ曲ですか?
2021年にもなって何を不安がっているんでしょうか。私自身、どうかしていると思います。ただ、私は忘れもしません。クロスフェードが公開された当時、界隈は二……三分化していたことを――
朝比奈日和ソロ曲説
如月桃&朝比奈日和曲説(構造としては「オツキミリサイタル」に近いものか?)
カノキド曲説(「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」*¹のオマージュ?)
曲の全貌が明らかにされた今でこそ、朝比奈日和曲説が最も有力*²とされていますが、ここまで分断されていたのが面白いですね。私は今のところ朝比奈日和ソロ曲という認識です。
しかし、あくまで有力説であって公式情報ではありません。ご一読にあたりまして、公的ではない情報を前提として書いているマユツバ記事である点を、ご留意の程宜しくお願い致します。ブログ名の通り、全部読まなくても大丈夫です。ハイ。
*²マイファニーウィークエンド (まいふぁにーうぃーくえんど)とは【ピクシブ百科事典】
「マイファニーウィークエンド」とは、大人になりきれない私達へのラブソング
ではないですね。ただ、結果として朝比奈日和への好意を誘発している……じゃあラブソングじゃん!?とはなり得ません。ハイ。
『メカクシティリロード』というアルバムは、「忘れてしまった夏の話」を描く作品と言えましょう。『メカクシティレコーズ』の発売から約5年。かつて熱狂的なファンであった子供が、「大人」になるには十分な年月であったハズ。残念ながら大人になった私達は、秘密基地に集うことも仲間達と共通の合言葉を交わすこともありません。「繰り返していく毎日はどこかかっこ悪くて」と、振り返って笑うことしかできないのです。「ロストデイアワー」は、全ては過去であるという現実を爽やかに突きつけてきます……。
「失想ワァド」は、不器用な少女が大人になる中で変わり続けていくことを事実として受け止めなくてはいけませんし、「アディショナルメモリー」はみんなのヒーローであったハズの少女の人間性(神性の反対の方)を受け入れなくてはなりません。大人になると、子供の頃は見えなかった現実が見えてくる、のかもしれませんね!知らんけど。「普通」というコミュニティから逃れたり、現実離れした理想論を語るのも、子供の時分に限って許されるもので。大人になれば否が応でも現実逃避を止めなくてはならない。
ああ、カゲロウプロジェクトも子供が大人になる様を描くんだなあ……
そんな現実を当たり前のように突きつけてくる楽曲群の中、「マイファニーウィークエンド」は明らかに異色です。私らしい私!自分らしく生きる!(キラキラ)等々といったポジティブ思想を非実在少女の言葉に載せる歌なんてイマドキ過ぎる程にイマドキですが、この曲はそれ単体が持つ意味以上に『メカクシティリロード』に収録されていること自体に大きな意味がある……と、思わずにはいられません。
「子供らしく」だなんて反吐が出ちゃうわ
ずっと「自分らしく」生きたいなら
まずは「威勢良く」そして「諦め悪く」
跳梁跋扈 いざ行こう! ――朝比奈日和
この部分とか、額に収めて飾りたいですね。
歌詞の力強さも勿論「マイファニーウィークエンド」の魅力の一つですが、何よりも彼女が大人にも子供にも規定されない存在を歌っている部分、凄い。好き。大好き。
大人になることって、ある意味妥協だと思うんです。それは、『メカクシティリロード』にも表れていて(「イマジナリーリロード」がOPなのはちょっとこの際置いて下さいすみません)妥協という言葉が与えるイメージより、ずっともっと明るくて。過去を「楽しかったね」と思い出として語る感覚。そんな風に全部昇華して前を向けたら、素晴らしい成長ですね。『メカクシティリロード』は全体として、子供達の素晴らしい成長を描いていると思います。孤独だった子供達が、かけがえのない存在に出会い、人間関係の中で成長を果たす、正統派ストーリー……。
足掻いてもがいて生きていた子供時代を振り返りつつ、大人になることも案外悪くないのかも……な~んて思わせた矢先に「マイファニーウィークエンド」とは。「イマジナリーリロード」がガツンと殴ってくる曲なら、「マイファニーウィークエンド」は軽く両頬を平手打ちしてくれる曲だと思います。(キッショ)
いい日って、晴れに限らないんですね
朝比奈日和、という名前から受けられる印象は何でしょう。そうです!「晴れ」ですね!!!!!!!
朝比奈日和すなはち晴れの擬人化。彼女の向かう先は常に晴れ、太陽がさんさんと道を照らしてくれる……かと思いきや、「マイファニーウィークエンド」において、案外晴れはそこまで重視されていません。それどころか、蒸し暑い日とは苦しい!ものとし、映画を観ましょうと誘ってくれる。(?)挙句に太陽を「調子こいてる」とこき下ろす始末。
「マイファニーウィークエンド」って、ひたすらに明るい曲っぽいんですけれども、割と眩し過ぎないんですよね。陰気な私達(一括りにするな)を明るい外の世界に連れ出してくれる、力強さを讃える歌、太陽を讃える歌……ではないようです。むしろ、案外インドアで。夏の風物詩であろう海水浴、夏祭りも片っ端から否定。泳げないし、人込みはナンセンスだそうで。苦しむよりも楽しむべきだから、部屋でアイス食って映画でも観ようぜ、そんでちょっと日が傾いて涼しくなってから外出ようかな、なんて素敵な提案じゃありませんか……
もしや、孤独な子供達が爪弾きにされた、「普通」に迎合しなくっても、楽しめる世界があるのかもしれません。イヤそこまで直接的に言ってしまえば最早「朝比奈日和ソロ曲」ではないんですが。
ただ、彼女が無根拠に「明日がどんなに雨降りだって大丈夫よ」と答えてくれるのが嬉しい。自らを子供とも大人とも規定しない朝比奈日和という存在が、導いた「幸せ」や「いい日」が、晴れの日ばかりではないことは、この上なく素敵なことに思えませんか?
おわりに
いかがでしたか?
やはり、謎の尽きないキャラクターということもあって、未だ分からないことだらけです>< この先のメディア展開にますます目が離せません……!!
今後朝比奈日和の行く先々が幸せだといいですね!